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アジアと関係を結べなくなった九州

明治以前の国際文明の窓口であった吸収は、何故国際化やアジアとの関係においてその役割を東京谷田の地域に奪われてしまっているのであろうか。国際化の潜在力をもった有能な九州出身の若い人材は東京へ出てそこをベースに国際的活動を行う。国際化した大企業の支店経済都市と化した福岡には、大企業の中で必ずしも国際的センスを持たない人材が送られてくることになる。大企業の九州工場は海外へ輸出する製品を製造し出荷するが、売買や輸出の交渉、契約は本店を通じ行われる。九州で消費される輸入品も東京の本社を通じ契約が締結され、日本の様々な港を通じて輸入されたあと九州に届けられる。国際人材をあまり必要としない自動車の荷役などは九州でも行われるが、付加価値の高い取引は基本的に東京などの本店で集中して行われ、アジアと諸国や企業との関係も本店を通じ蓄積されている。頭脳を使う取引を東京に奪われた中で、アジアと関係の深い九州経済はお題目に過ぎなくなってしまう。

鎖国時代に日本の近代化をリードした九州は、アジアを通じて欧州に繋がることでその独自性を発揮した。薩摩藩、鍋島藩、平戸松浦藩などの藩間の国際化競争は西欧文明の日本への移転の大きな原動力となった。薩摩、鍋島では西欧の近代軍事力に直面し、大砲や蒸気機関の国産化へ向かった。秀吉が朝鮮から連れ帰った陶工により鍋島藩の特産となった白磁有田焼は、清の内乱で生産中止に追い込まれた景徳鎮の代替品として、平戸に拠点を持つ鄭成功一派により青磁の技術移転を受け、伊万里ブランドをつけて欧州に輸出され、17世紀中盤の欧州市場を席巻した。

このようなアジアに開かれた九州は藩という地方分権体制間の競争によってもたらされた面が大きく、そのような情報の拠点であった長崎は各地から若い優秀な人材をひきつけた。藩校での儒教を基本とする教育に飽き足らない中津藩の福沢諭吉も鍋島藩の大隈重信も長崎で蘭学を学ぶことで、明治の日本をリードする知識人となった。長州藩吉田松陰は19歳で長崎平戸に旅立ち葉山佐内の元で蘭学者の書物を濫読し、グローバルな視点からの攘夷論の思想的基盤を得た。

九州が本気でアジアとの関係を強化しようとするのなら、現在の日本の中央集権の諸制度の大幅な変更をするしかないであろう。廃県置藩でも道州制でも、そのような制度の改革なしに、九州に国際化を目指す若者が集まるわけはなく、アジアの留学生が居つくことも考えにくい。
by masakuhara | 2006-06-20 15:47 | 日本の欧化
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